もう随分前に耳にして、ソースもない話だが、
「『萩尾望都(代表作:トーマの心臓)』が漫画ではなくて文芸家であったならば、全世界で高い評価を得ていた」
という話だ。
しかしこの説は、全くの愚説である。
真の芸術家、または表現者にとって、手段はあくまで手段である。
その人が表現したいことにとって、一番適した・都合のよい手段をとる。
例えば、夏目漱石が手塚治の後の時代に出現していたら、漫画家になっていたのではないか。
なぜならば、夏目漱石の文学は、文章そのものの美しさよりも、描かれるキャラクターやストーリーが活きていて、且つデフォルメ的だからだ。
視覚的にクッキリと情景が浮かびやすい。
漫画にしたら、その良さは一層引き立ったのではないか。だからだ。
もちろん、逆に文学的な魅力を感じさせる漫画家がゴマンと居る。
中村明日美子、池田理代子、山岸涼子、吉田秋生、藤田和日郎、浅田弘幸、魚喃 キリコ 、楠本まき、玉置勉強、藤原薫・・・
彼らの作品が、小説であったとして、小説しかなかったとして、それでもやっぱり面白そう、魅力的に思えるだろう。要するに、文学的魅力を備えているということだ。
また、例えば三浦健太郎のあの「ベルセルク」が、漫画という技法の確立する前の時代に出現したとする。
一体、彼はどうしただろう。
絵画?映画?芝居?ありうるが、おそらくは小説として執筆していたのだろう。
文章だけの表現にやりがいを感じなければ、他の職業人となっていたかもしれないが・・・。
どうだろう。
「漫画」という表現方法がある時代に、彼が出生したことはかなり幸運だと思う。
萩尾望都が、三浦健太郎が、「漫画じゃなくて小説で書いたらいい賞あげるよ」と言われて、小説で作品を書いていただろうか?
否。
文に言葉に、そして描く流線に、その表現を乗せたかったのである。特に人物を表現したいのであれば、直接その表情を描き出すのが一番その想像に密接できる。もちろん技術が間に合えば。
表現者は、リアルでも写実でもなく、込み上げる「何か」を表現する。
「文学のほうが世界に認められているから」
という理由で、マンガを描きたかったけれど小説家になった人もいるだろう。
でも、単純に漫画は「文」と「絵」との二重で表現ができる。
表現したいコトを胸の小宇宙に抱える誰かが、小さい頃からその表現方法に触れていた。だからその表現方法を選んだ。
至極当然のことである。
真の表現者、芸術家が「漫画」の中に居る。
これは何より、世界各国の人々が証明しつつある。
国も文化も言葉も違う人々がこぞってその「表現」に魅せられ求める。
そして、風刺画・戯画、サブカルチャーの一部ではなくて、マンガは「漫画」になって行く。
私は、それがサブカルチャーのままであることがまた素敵なことなのではないかと思うけれども、大きく成長している何かを偲んでいるだけなのかもしれない。
こうするうちに、また新たな表現方法「文化」が生まれて行くのだろうか・・・











