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子供の名前は芸名じゃない

子供の名前は芸名じゃない
子供の名前は、芸名じゃない。コスプレイヤーネームじゃない。
ペンネームではない。ハンドルネームでもない。

瑠、夢、涙・・・

ここで討議したいのは、強くなんらかのイメージが浮かぶ名前の、戸籍上の命名についてだ。
そういった名前を子供に付けようとしている人は、少し考えてほしい。

綺麗な響き、字面。
夢のある名前。

美や夢があるのは結構。でも、それが子供という、将来自我を持つことが確定している個人の一生に、逃れられることのない名前として与えられるとすると、別だ。

昔から、響きや字面が綺麗な名前というものは使われてきた。
そういった名前に憧れた人がいるだろう。実際、そういった名前に憧れて、子供にもそれを与えたいと思うのだろう。

けれど、そういった美麗な名前は、大抵が芸名であり、ペンネームである。
「夢を与えるのが仕事」な人達の特権であった。

いや、特権というよりも、夢を与えるために、自分を「現実」から引き剥がし、「夢に身を置くため」の手段である。
そういった仕事を選んだ人間が、「自分の意思で、自分に」付けるのである。
美麗な名前に限らず、当て字や響きで個性を主張する名前もそうである。

また、もちろん「仕事」だけではない。
現実の中の自分が、現実から逃げ去るために・・・
自分が夢想する自分に追いつくために・・・

自分になんらかの「別名」を持たせる。
特に女性であれば、思春期の自分に「それ」を与えた人は少なくはない筈だ。
インターネットなど、自分の「現実」を隠し、足を踏み入れる場を近くに持っていた子供であれば尚更だ。

かくいう私も、私の中に生きる「思春期の自分」にある名前が付いている。
それは、私が夢想する私の名前で、それは響きも字面も意味も、その夢想のために考え抜いたものである。

だから、響きや字面や意味に、夢を込め膨らませて考える行為の「楽しさ」を十分に知っている。

でもそれは、自分が自分のために、夢や希望を込めて与えたものだから大切な名前なのだ。
その名前は、「与えられた現実」から解き放たれ、抵抗し、夢を思い描くためのものである。
「私のための夢のもの」であって、「現実」がなくなるわけではない。
私が自我を持つ前の現実、逃れられない現実、与えられた現実、目を背けたい現実、素朴な幸せのある現実。
その現実と、自分の思い描く夢と、その間に境界線を描くための「名前」だった。

芸能人でも芸人でも、作家でも、プロレスラーでも、そうなのではないか。

人は、夢を見る。
だけど、現実がある。
現実は、生臭くて、残酷で、汚くて、暖くて、冷たい。
子供は、望もうとも望むまいとも、現実を生きてゆかなければならない。

子供は、親の見る「夢」ではない。
おしっこをし、うんちをし、食べ物をこぼし、泣く、めんどくさい「現実」そのものなのだ。
線の細い、美しい名前を与えられても、筋骨隆々、油っぽい男に育つ、その現実。

現実は時に、親の夢とは異なり、名前から強くイメージされる雰囲気と無関係に、子供は育つだろう。
そのとき、名前のイメージと、子供の現実のイメージのギャップは、子供ではなくまず周りが反応するだろう。
笑いものにするだろう。それが現実だ。

現実を、受け入れ、愛する。
それができることは、素晴らしいことだと思う。

でももし、夢を見る乙女の気持ちで、強いイメージのある名前を子供につけようとしているのなら。
あなたは親ではなく、思春期の子供なのではないか?

私は比較的普通の名前を付けられたことに感謝している・・・
もっと地味な名前でもよかったが。
それは私が、「現実」を生きるのに適しているからである。

私の「夢」を夢から引きずり出し、力を与え、私の思い通りに動かす時期は、私が決めたい。
もしかしたら、一生表には出さないのかもしれない。

それまで私は私の「現実の名前」で・・・この現実という世界の地べたを生きていく。
現実という世界の地べたに居たまま、浮かれた名前など背負わなくて本当に良かったと思う。

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