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2007年06月 アーカイブ

2007年06月11日

"Ten-no" is not Emperor of Japan.

1998年のこんな記事を覚えている。
その記事に添えられていたのは、訪英の天皇が、パレード中に抗議を受けている写真だ。
なんでも第二次世界大戦中の元捕虜で、抗議といってもパレードの通りに沿い国旗を降ろして背を向けて立っているというものだから、さすがは英国紳士と妙に感心してしまった。
(参照) http://4travel.travel.msn.co.jp/e/msn/traveler/kumusta/pict/10563658/

その記事の見出しに記されていた、「Emperor of Japan」という文字を見て、考え込んでしまった。
Japanese Emperor?
天皇は「てんのー」なのに・・・。
特に私は、左翼的ともいえる戦後50年教育の申し子である。

同年代の女学生達は、皇室の暮らしぶりを耳にするとこぞって、「テンノーはずるい!」「テンノーはいらない、税金のムダ!」と悪口を叩いている。

日本国内で小娘に「テンノーイラナイ」よばわりされているにこやかなおじさんが、外国では「Emperor of Japan」。酷い違和感である。

「Ten-no」と「Emperor of Japan」。
語感に大きなイメージの差があるだけでなく、調べるところによると、Emperorの意味しているものはとんでもないものである。
ローマ法王(Pope)、女王・国王(Queen,King)、大統領(president)、首相(premier)よりも偉いという位置づけにあるのが天皇(Emperor)(小文字から始まるemperorは皇帝で、また別)というではないか。

これは明らかに誤訳ではないのか。

誤訳というものは恐ろしいもので、原爆を投下された原因ではないかとすら言われている。

また、英語が世界公用語のようになってしまうことも、平和を目指す上ではどうなのか。

「congenital biliary atresia」と言われてもbiliary、atresiaなどの単語は、常用単語ではないらしくEnglish speakerであってもそのまま意味がわかる人はまれらしい。
これを「先天性胆道閉鎖症」と表意文字(漢字)で表せば、漢字一文字ずつの意味さえわかっていればかなり正確に理解することができる。

しかし、表意文字を発音した場合、異口同音が多いため、口語として使うなら表音文字(英語など)が平和的なのかもしれない。

私としては、「インド英語」が世界公用語に適していると考えている。
例として、「Wednesday」この読み方を教えられなければ誰も「ウェンズデイ」とは読まないだろう。
しかし、インドでは見たまま「ウェドゥネスデイ」と読むらしい。

教えられなければ正しく喋れない、閉鎖的な言葉よりも、見たまま読めるほうが健全である。
しかし、見たまま読むにしても、母国語が何であるかによって変わってくるだろう。
結局、どの言葉も方言なのである。

話が言語についてにまで至ってしまったが、私が違和感を覚えた9年前に世界中の和英・英和辞典を修正していたならば、もっと世界と日本は仲良くしていたかもしれない。

尤も、英語圏の辞書を直したところで、特定アジアからの政治的反日扇動が静るものでもあるまいが。

2007年06月29日

日本240万人のリストカッターズ。

宋 文洲の記事は初めて知ったが、こんな記事があった。

 些細なことで自殺する今日の日本には、十分に幸せなはずなのに幸せになれない人々が、大勢います。理由は簡単です。失う経験がないからです。得ることは当然であり、足りないことを不幸と考えるのです。その足りないことは、他人との比較によって常に作り出しているのです。だから常に不幸なのです。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20070618/127677/

私がこの考えに至ったのは、17・8才の頃だった。
子供の時分からずっと祖母・母に「お前は幸せだ」と言われ続けて、それで私はなぜ、事実死に対する願望が膨らむのか。
私は考え続けていた。
初めは、「自分が悪いからだ」と思っていた。「幸せな環境なのに、こんなにも苦しいのは、自分自身が悪だから」
そう思っていた頃が、一番重症だった。

恵まれていることと、幸せであることは、違う。
10代後半の私が、「自分で掴み取る幸せ」を少しずつ、少しずつ手にしながら、気付きはじめた。

10代の少年少女の人口、約240万人。
小学生の作成したHPのリンク集を見たことがあるか。
私が10代であったころと比べ物にならないくらいの少年少女が、声に出さずに叫んでいる。

そして、自らの血を少しだけ失いながら、微かな幸せを得、また少しだけ生きる糧とする。
それこそ、「失うことによる幸せの認識」である。

なんと悲しい認識方法だろうか。

太古から、人は生きることとは何か、幸福とはなにか、何を目指すべきかを思い、悩んできた。
その苦しんだ軌跡、共に考え続けること、それが「哲学」である。

「食べること」まずは食べること―「経済」を追ってきた、近代世界の大部分。
食べたら次は、幸せになること、それが目指すべきことで、それこそ祖先の願いである。
食べたら、また食べる、では、病気になり死に至るのを早めてしまう。

プラトンが1400年前に少年たちを集め無形を説いた、アカデメイアが何故今無いのか。
何故、「生きること」「幸せ」を話し合うことが、義務教育でなされないのか。

説く者がいなくても、ただ哲学の歴史について学べばよい。
自分の中に閉ざされた苦しみが、数千年も前から同じように誰かが悩み苦しんでいたことだと判るだけでも心の暗闇に小さくとも光は灯るだろう。

本当になんにも見えない、暗闇を抱えてしまった少年と少女は、目に映った世界も真っ暗闇である。
だから、なんだってできる。どんな凄惨な行為でも・・・心の眼が見えないのなら、できてしまう。

現代の大人は、私も含めて・・・ロウソクに火さえ点けられないのだろうか。
宗教国家であれば、ロウソクに火を点けることは容易いだろうか。
そもそも宗教は、ロウソクに火を点けやすくする燃料のようなものである。

無宗教国日本は、哲学大国にはなれないだろうか?

小さなロウソクの火でも、明りさえ灯れば暗闇は暗闇でなくなるのだから。

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