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	<title>CODE::UNUM &#187; 一限目　-哲学-</title>
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	<description>コード・ユーナム　言論と主張。社会、哲学、犯罪、科学について。 リンクフリー。</description>
	<pubDate>Thu, 19 Nov 2009 03:22:46 +0000</pubDate>
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		<title>日本240万人のリストカッターズ。</title>
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		<pubDate>Thu, 28 Jun 2007 21:29:32 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[一限目　-哲学-]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://kassy.jpn.org/unum/?p=13</guid>
		<description><![CDATA[
宋 文洲の記事は初めて知ったが、こんな記事があった。

　些細なことで自殺する今日の日本には、十分に幸せなはずなのに幸せになれない人々が、大勢います。理由は簡単です。失う経験がないからです。得ることは当然であり、足りないことを不幸と考えるのです。その足りないことは、他人との比較によって常に作り出しているのです。だから常に不幸なのです。 

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20070618/127677/
私がこの考えに至ったのは、17・8才の頃だった。
子供の時分からずっと祖母・母に「お前は幸せだ」と言われ続けて、それで私はなぜ、事実死に対する願望が膨らむのか。
私は考え続けていた。
初めは、「自分が悪いからだ」と思っていた。「幸せな環境なのに、こんなにも苦しいのは、自分自身が悪だから」
そう思っていた頃が、一番重症だった。
恵まれていることと、幸せであることは、違う。
10代後半の私が、「自分で掴み取る幸せ」を少しずつ、少しずつ手にしながら、気付きはじめた。
10代の少年少女の人口、約240万人。
小学生の作成したHPのリンク集を見たことがあるか。
私が10代であったころと比べ物にならないくらいの少年少女が、声に出さずに叫んでいる。
そして、自らの血を少しだけ失いながら、微かな幸せを得、また少しだけ生きる糧とする。
それこそ、「失うことによる幸せの認識」である。
なんと悲しい認識方法だろうか。
太古から、人は生きることとは何か、幸福とはなにか、何を目指すべきかを思い、悩んできた。
その苦しんだ軌跡、共に考え続けること、それが「哲学」である。
「食べること」まずは食べること―「経済」を追ってきた、近代世界の大部分。
食べたら次は、幸せになること、それが目指すべきことで、それこそ祖先の願いである。
食べたら、また食べる、では、病気になり死に至るのを早めてしまう。
プラトンが1400年前に少年たちを集め無形を説いた、アカデメイアが何故今無いのか。
何故、「生きること」「幸せ」を話し合うことが、義務教育でなされないのか。
説く者がいなくても、ただ哲学の歴史について学べばよい。
自分の中に閉ざされた苦しみが、数千年も前から同じように誰かが悩み苦しんでいたことだと判るだけでも心の暗闇に小さくとも光は灯るだろう。
本当になんにも見えない、暗闇を抱えてしまった少年と少女は、目に映った世界も真っ暗闇である。
だから、なんだってできる。どんな凄惨な行為でも・・・心の眼が見えないのなら、できてしまう。
現代の大人は、私も含めて・・・ロウソクに火さえ点けられないのだろうか。
宗教国家であれば、ロウソクに火を点けることは容易いだろうか。
そもそも宗教は、ロウソクに火を点けやすくする燃料のようなものである。
無宗教国日本は、哲学大国にはなれないだろうか？
小さなロウソクの火でも、明りさえ灯れば暗闇は暗闇でなくなるのだから。

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
宋 文洲の記事は初めて知ったが、こんな記事があった。<br />
</p>
<blockquote><p>　些細なことで自殺する今日の日本には、十分に幸せなはずなのに幸せになれない人々が、大勢います。理由は簡単です。失う経験がないからです。得ることは当然であり、足りないことを不幸と考えるのです。その足りないことは、他人との比較によって常に作り出しているのです。だから常に不幸なのです。 </p></blockquote>
<p>
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20070618/127677/<br />
私がこの考えに至ったのは、17・8才の頃だった。<br />
子供の時分からずっと祖母・母に「お前は幸せだ」と言われ続けて、それで私はなぜ、事実死に対する願望が膨らむのか。<br />
私は考え続けていた。<br />
初めは、「自分が悪いからだ」と思っていた。<strong>「幸せな環境なのに、こんなにも苦しいのは、自分自身が悪だから」</strong><br />
そう思っていた頃が、一番重症だった。<br />
恵まれていることと、幸せであることは、違う。<br />
10代後半の私が、「自分で掴み取る幸せ」を少しずつ、少しずつ手にしながら、気付きはじめた。<br />
10代の少年少女の人口、約240万人。<br />
小学生の作成したHPのリンク集を見たことがあるか。<br />
私が10代であったころと比べ物にならないくらいの少年少女が、声に出さずに叫んでいる。<br />
そして、自らの血を少しだけ失いながら、微かな幸せを得、また少しだけ生きる糧とする。<br />
それこそ、「失うことによる幸せの認識」である。<br />
なんと悲しい認識方法だろうか。<br />
太古から、人は生きることとは何か、幸福とはなにか、何を目指すべきかを思い、悩んできた。<br />
その苦しんだ軌跡、共に考え続けること、それが「哲学」である。<br />
「食べること」まずは食べること―「経済」を追ってきた、近代世界の大部分。<br />
食べたら次は、幸せになること、それが目指すべきことで、それこそ祖先の願いである。<br />
食べたら、また食べる、では、病気になり死に至るのを早めてしまう。<br />
プラトンが1400年前に少年たちを集め無形を説いた、アカデメイアが何故今無いのか。<br />
何故、「生きること」「幸せ」を話し合うことが、義務教育でなされないのか。<br />
説く者がいなくても、ただ哲学の歴史について学べばよい。<br />
自分の中に閉ざされた苦しみが、数千年も前から同じように誰かが悩み苦しんでいたことだと判るだけでも心の暗闇に小さくとも光は灯るだろう。<br />
本当になんにも見えない、暗闇を抱えてしまった少年と少女は、目に映った世界も真っ暗闇である。<br />
だから、なんだってできる。どんな凄惨な行為でも・・・心の眼が見えないのなら、できてしまう。<br />
現代の大人は、私も含めて・・・ロウソクに火さえ点けられないのだろうか。<br />
宗教国家であれば、ロウソクに火を点けることは容易いだろうか。<br />
そもそも宗教は、ロウソクに火を点けやすくする燃料のようなものである。<br />
無宗教国日本は、哲学大国にはなれないだろうか？<br />
小さなロウソクの火でも、明りさえ灯れば暗闇は暗闇でなくなるのだから。<br />
</p>
]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>踏みしだく命に比例してその心は優しく深くなる</title>
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		<pubDate>Thu, 23 Nov 2006 18:45:07 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[一限目　-哲学-]]></category>

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		<description><![CDATA[
象は、「人間の良い所だけを集めたような動物」
と言われます。
鯨も、保護団体の心を異常なまでに捉えるほどの、何かを持ち合わせた動物のようです。
「大きな動物程、優しい心を持っている」
そう言われます。
その時、「人間はどうなんだろう」　と、考える人も多いのではないでしょうか？
私、つい此間家に帰宅した時、玄関先のナメクジを思いっきり踏んでしましました。いつもは慎重に避けたり、そっとつまんで草むらに戻したりするのですが、その時ちょっとしたことがあって涙で前が霞んでいたのです。
ブーツの裏に貼り付いて、ナメクジの圧死体も玄関内まで付いてきました。
いつも思います。
虫を殺すのは嫌で、いつも足元に注意して歩いているのに、不注意なあいつらは呑気に足の下に登場する。私はそいつが潰れる度に、悔しくてなりません。こちらは殺したくなくて、注意して歩いているというのに！
どこかの本で読みました。人間の足元土の下には、何万という命がいると。
そして、人間程他の命を犠牲にして生きている生物はいない、と。
思いました。
鯨が大きな口を開けて海水を吸って、アミどもを体内に取り入れる時、何を考えているのだろうかと。食べたくない時に口を開けて、小魚が入って食べたとき、何を感じるのかと。
沢山沢山の小さな生き物を踏んづけないと生きられない、大きな動物。
多くの小さな命を食べないと、生きられない動物。
人間の体こそ小さいけれど、犠牲にする命の数は、鯨や象よりもダントツで一番。それも本で読みました。
ナメクジの圧死体を見た瞬間、思いました。
ああそうかあ・・・。大きな動物が優しいのは、沢山の命を犠牲にしているから。そして、沢山の命を犠牲にしている代表が、人間なんだな。
だから、地球上のピラミッドの頂点である人間は、こんなにも哀しい生き物なんだ。
そう思いました。
象も鯨も人間も、犠牲にしている命への意識ってきっとほとんどない。
肉おいしいおいしいって食べている。
感謝するのはアイヌや原始生活民くらい。
それでも精神になんらかの影響があるとすれば、未解明の命の宿るなにかが命の中で未解明な現象を起こしているのかもね。
いや
象も鯨も、犠牲にしてる命には感謝しているのか？
原始時代人間は、犠牲となる命に感謝したから心が育ったのであって、
犠牲になる命に感謝しなくなったら、心が退化するのか？
ありゃ・・・。

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
<strong>象</strong>は、「人間の良い所だけを集めたような動物」<br />
と言われます。<br />
鯨も、保護団体の心を異常なまでに捉えるほどの、何かを持ち合わせた動物のようです。<br />
「大きな動物程、優しい心を持っている」<br />
そう言われます。<br />
その時、「人間はどうなんだろう」　と、考える人も多いのではないでしょうか？<br />
私、つい此間家に帰宅した時、玄関先のナメクジを思いっきり踏んでしましました。いつもは慎重に避けたり、そっとつまんで草むらに戻したりするのですが、その時ちょっとしたことがあって涙で前が霞んでいたのです。<br />
ブーツの裏に貼り付いて、ナメクジの圧死体も玄関内まで付いてきました。<br />
いつも思います。<br />
虫を殺すのは嫌で、いつも足元に注意して歩いているのに、不注意なあいつらは呑気に足の下に登場する。私はそいつが潰れる度に、悔しくてなりません。こちらは殺したくなくて、注意して歩いているというのに！<br />
どこかの本で読みました。人間の足元土の下には、何万という命がいると。<br />
そして、人間程他の命を犠牲にして生きている生物はいない、と。<br />
思いました。<br />
鯨が大きな口を開けて海水を吸って、アミどもを体内に取り入れる時、何を考えているのだろうかと。食べたくない時に口を開けて、小魚が入って食べたとき、何を感じるのかと。<br />
沢山沢山の小さな生き物を踏んづけないと生きられない、大きな動物。<br />
多くの小さな命を食べないと、生きられない動物。<br />
人間の体こそ小さいけれど、犠牲にする命の数は、鯨や象よりもダントツで一番。それも本で読みました。<br />
ナメクジの圧死体を見た瞬間、思いました。<br />
ああそうかあ・・・。大きな動物が優しいのは、沢山の命を犠牲にしているから。そして、沢山の命を犠牲にしている代表が、人間なんだな。<br />
だから、<strong>地球上のピラミッドの頂点である人間は、こんなにも哀しい生き物なんだ。</strong><br />
そう思いました。<br />
象も鯨も人間も、犠牲にしている命への意識ってきっとほとんどない。<br />
肉おいしいおいしいって食べている。<br />
感謝するのはアイヌや原始生活民くらい。<br />
それでも精神になんらかの影響があるとすれば、未解明の命の宿るなにかが命の中で未解明な現象を起こしているのかもね。<br />
いや<br />
象も鯨も、犠牲にしてる命には感謝しているのか？<br />
原始時代人間は、犠牲となる命に感謝したから心が育ったのであって、<br />
犠牲になる命に感謝しなくなったら、心が退化するのか？<br />
ありゃ・・・。<br />
</p>
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		<title>殺</title>
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		<pubDate>Tue, 19 Jul 2005 18:40:32 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[一限目　-哲学-]]></category>

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		<description><![CDATA[
Q『どうして人を殺しちゃいけないの？』
A『悲しむ人が居るからです』
　許せないくらい、悲しむ人がいるからです。
　人を殺した人の正しい刑は、死刑ではありません。
　被告の一番愛する人を同じ方法で殺すことです。
　被告に愛する人がいなければ、愛を育てるところからはじめます。
「どうして人を殺しちゃいけないの？」「ははは。それは難しい質問だな。お前だって、殺されたらイヤだろう？誰だって死にたくないからさ」「じゃあ、自分が死んでもいいと思ってる人は、人を殺してもいいの？」「ははは。自分が死んでもいいからって人を殺しちゃだめなんだよ」「だめって誰が決めたの？戦争ならいいの？」
　そんな質問するガキのママを連れてきてナイフでも当てるのが一番です。
　元殺し屋が、家族を殺されて復讐して、また復讐仕返したりするバイオレンス映画が嫌いです。
　大切な人を殺されたくなかったら、人を殺さなければいいだけの話です。
　『どうして人を殺しちゃいけないの？』
　私が16の時、14才の少年Aが人を殺した。
　即答できずに悩む「大人」達が、昔私は怖かった。

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
Q『どうして人を殺しちゃいけないの？』<br />
A『悲しむ人が居るからです』<br />
　許せないくらい、悲しむ人がいるからです。<br />
　人を殺した人の正しい刑は、死刑ではありません。<br />
　被告の一番愛する人を同じ方法で殺すことです。<br />
　被告に愛する人がいなければ、愛を育てるところからはじめます。<br />
「どうして人を殺しちゃいけないの？」「ははは。それは難しい質問だな。お前だって、殺されたらイヤだろう？誰だって死にたくないからさ」「じゃあ、自分が死んでもいいと思ってる人は、人を殺してもいいの？」「ははは。自分が死んでもいいからって人を殺しちゃだめなんだよ」「だめって誰が決めたの？戦争ならいいの？」<br />
　そんな質問するガキのママを連れてきてナイフでも当てるのが一番です。<br />
　元殺し屋が、家族を殺されて復讐して、また復讐仕返したりするバイオレンス映画が嫌いです。<br />
　大切な人を殺されたくなかったら、人を殺さなければいいだけの話です。<br />
　『どうして人を殺しちゃいけないの？』<br />
　私が16の時、14才の少年Aが人を殺した。<br />
　即答できずに悩む「大人」達が、昔私は怖かった。<br />
</p>
]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>死</title>
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		<pubDate>Sat, 09 Jul 2005 18:37:58 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[一限目　-哲学-]]></category>

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		<description><![CDATA[
死は生者のものであって、死者のものではない。
　葬式も死者のものではなく、生者のためのものだ。
　お経はヒーリングミュージック。
　仏閣も仏具も法事もヒーリングツール。
　お経で成仏しなければいけないのは、死者ではなくて、
　残された人の心の靄。
　トランスとお経は本当に似てるなあ、と聞くたび思う。
　死んだらどこへ行くかって、そりゃ、生ものだから地球に還るでしょう。
　心も同じ。
　広義では地球は宇宙から来たんだから、宇宙に還るともいうかもね。
　うまく心の分解も進めば、宇宙を孕むものも認識できるかもしれない。
　そしたら、おめでとう。

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
死は生者のものであって、死者のものではない。<br />
　葬式も死者のものではなく、生者のためのものだ。<br />
　お経はヒーリングミュージック。<br />
　仏閣も仏具も法事もヒーリングツール。<br />
　お経で成仏しなければいけないのは、死者ではなくて、<br />
　残された人の心の靄。<br />
　トランスとお経は本当に似てるなあ、と聞くたび思う。<br />
　死んだらどこへ行くかって、そりゃ、生ものだから地球に還るでしょう。<br />
　心も同じ。<br />
　広義では地球は宇宙から来たんだから、宇宙に還るともいうかもね。<br />
　うまく心の分解も進めば、宇宙を孕むものも認識できるかもしれない。<br />
　そしたら、おめでとう。<br />
</p>
]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>20世紀末日をもって善悪という言葉は終了しました</title>
		<link>http://kassy.jpn.org/unum/001/4.php</link>
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		<pubDate>Sun, 24 Apr 2005 18:30:41 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[一限目　-哲学-]]></category>

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		<description><![CDATA[
20世紀末日をもって善悪という言葉は終了しました
20世紀末日をもって善悪という言葉は終了しました。
　何を語るよりも前に、
　このサイトがテキストサイトなのか、それとも別のサイトなのかなんなのかも決まる前に、最初にこのルールを掲げよう。
　全世界の、言葉を持つ数十億人の人々に、本気でこのルールを行使して欲しい。
　もうやめましょう。
　良い、悪い。
　その表現は19世紀の間に捨てるべきでした。
　良い、悪い。善悪。この言葉が、人の思考を停止させます。
　見るといい。
　この言葉を追いかけ命を奪い合い、それでも何が善か、何が悪か、考えるほど悪を狩る程わからなくなって悩み苦しむ人がなんと多いか。
　わかる訳がない。
　善悪などどこの世界にも存在しないのだから。
　人は、善悪という言葉の根元を常に考えるべきだった。
　根元とは？
　善悪という言葉の根元は、その言葉を造り出した人間、そのものの中にある。
　人間とは則ちあなただ。
　あなたが、嫌と感じるか、喜びを感じるか。
　これが善悪の根元である。
　昔、国の統治者は、平和をつくるために、多くの人が強く嫌だと感じる行動をとった者に、罰を与えることにした。
　それが罪や法の起源である。
　そして人はなぜか、「多くの人が嫌がる行為」を、悪という言葉でひっくるめてしまった。
　A国とB国があった。A国とB国では、「多くの人が嫌がる行為」と「多くの人が喜ぶ行為」逆であった。
　A国とB国では、それぞれの国の中で「多くの人が嫌がる行為」を禁止し、平和を保っていた。
　A国にある優しく真面目な娘がいた。娘は、毎日「多くの人が喜ぶ行為」を行い、「多くの人が嫌がる行為」を憎み、皆に愛されていた。
　しかし彼女は、B国の噂を聞いた。
　その国では、自分が毎日している事が嫌がられ、自分が憎んでいた行為が喜ばれるらしい。
　彼女は急に怖くなってしまった。自分は、絶対に人の嫌がることはしたくない。
皆に喜ばれたい。それなのに、自分の毎日していたことは他の国の人々の嫌がることだった？
　そんなはずはない！
　私は人の嫌がることをしている訳がない！私は「悪くない」！「良いことをしているのよ」！
　彼女がそう叫んだ瞬間、B国の「多くの人が喜ぶ行為」を「悪いこと」と定義付けてしまったのだ。
　B国でも彼女と同じ、真面目な人が「多くの人が喜ぶ行為」を一生懸命皆のために行っているかもしれないのに。
　自分のしている行為が、皆も喜ぶと信じたいがために。
　自分の生き方が誰かを傷つけていることから目を反らすために。
　自分を正当化するために。
善と悪が生まれた。
　結局、A国は、B国を滅ぼした。「悪いことを行う国」だからだ。
　B国で、皆を喜ばせるために真面目に働いていた娘がいたが、娘は「悪いこと」をしているという理由で殺された。
　A国の娘が、「私の家族や友人は喜ぶけど、あなたの国では嫌がられるのね」という風に納得していれば、B国の娘は殺されずに、幸せに暮らしていたかもしれない。
　本当に、B国が滅ぶ必要はあったのか？
　A国の人々はこう答えた。「B国は悪い国だったから良かったんだ」と。
　B国の娘の死体から流れた涙は、全て砂に吸い込まれてしまった。
愚話？残念。
現代の話である。
　そして今この瞬間さえも、地球で一番大きな国の兵士が、「悪」という自分を正当化するために生まれた言葉に判断をまかせて、B国の娘を殺している。
　誤爆で吹き飛んだ家でバラバラになった子供の死体を見ても、自分ですべきことを自分で判断せず「悪」という言葉に判断を任すのである。
　だから「悪を滅ぼすため」と言われればいくらでも殺せるのである。
　また、善悪の考え方には、宗教が強く汲みしている。
何万年も前の太古の昔から宗教があるが、善悪の概念を生み出した宗教は少なくないだろう。
　昔も今も、人は混沌とした闇に脅える。
　その恐怖から逃れるために、善悪の概念は大いに役に立つ。
　闇の中で震えながら、人はイメージする。
　世界が善と悪の二つに分かれている。
　自分は、分かれた世界の善の側にいる。自分は善に守られ、自分の恐れる悪はこちらに入って来れない。
　なぜなら自分は善を信じ、日々善を行っているからだ。
　そう考えることで、心の恐怖のもとであった悪が遠ざかり、安心して眠ることができる。
これも現代の話だ。
　地下鉄に毒を撒き散らしても、彼らにとっては「善いこと」なのだ。彼らには彼らの善と悪を判断する独裁者が居るからだ。
　だから、もうやめよう。
悪い＝私は嫌い。
良い＝私は好き。
それだけ。
　それでも怖いか。 自分の「好き」自分の「嫌い」で生きるのが怖いか。誰かに定義して欲しいか。それなら独裁者の国へ行け。独裁者の宗教に縋れ。
　お前は「悪く」などない。父性を他者に求める心もあるだろう。
　ただ、自分で考えずに人を傷つけるな。
　私は自分で考えない奴、自分で感じない奴が「大嫌い」だ。
　それだけ。
　私の世界には既に、善も悪も無い。
　「好き」「嫌い」で生きる私が怖いか？
　安心していいと思う。
　私は自由が「大好き」だから、法律に反することはあまりしないだろう。
　さようなら、20世紀。さようなら。

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
20世紀末日をもって善悪という言葉は終了しました<br />
20世紀末日をもって善悪という言葉は終了しました。<br />
　何を語るよりも前に、<br />
　このサイトがテキストサイトなのか、それとも別のサイトなのかなんなのかも決まる前に、最初にこのルールを掲げよう。<br />
　全世界の、言葉を持つ数十億人の人々に、本気でこのルールを行使して欲しい。<br />
　もうやめましょう。<br />
　良い、悪い。<br />
　その表現は19世紀の間に捨てるべきでした。<br />
　良い、悪い。善悪。この言葉が、人の思考を停止させます。<br />
　見るといい。<br />
　この言葉を追いかけ命を奪い合い、それでも何が善か、何が悪か、考えるほど悪を狩る程わからなくなって悩み苦しむ人がなんと多いか。<br />
　わかる訳がない。<br />
　善悪などどこの世界にも存在しないのだから。<br />
　人は、善悪という言葉の根元を常に考えるべきだった。<br />
　根元とは？<br />
　善悪という言葉の根元は、その言葉を造り出した人間、そのものの中にある。<br />
　人間とは則ちあなただ。<br />
　あなたが、嫌と感じるか、喜びを感じるか。<br />
　これが善悪の根元である。<br />
　昔、国の統治者は、平和をつくるために、多くの人が強く嫌だと感じる行動をとった者に、罰を与えることにした。<br />
　それが罪や法の起源である。<br />
　そして人はなぜか、「多くの人が嫌がる行為」を、悪という言葉でひっくるめてしまった。<br />
　A国とB国があった。A国とB国では、「多くの人が嫌がる行為」と「多くの人が喜ぶ行為」逆であった。<br />
　A国とB国では、それぞれの国の中で「多くの人が嫌がる行為」を禁止し、平和を保っていた。<br />
　A国にある優しく真面目な娘がいた。娘は、毎日「多くの人が喜ぶ行為」を行い、「多くの人が嫌がる行為」を憎み、皆に愛されていた。<br />
　しかし彼女は、B国の噂を聞いた。<br />
　その国では、自分が毎日している事が嫌がられ、自分が憎んでいた行為が喜ばれるらしい。<br />
　彼女は急に怖くなってしまった。自分は、絶対に人の嫌がることはしたくない。<br />
皆に喜ばれたい。それなのに、自分の毎日していたことは他の国の人々の嫌がることだった？<br />
　そんなはずはない！<br />
　私は人の嫌がることをしている訳がない！私は「悪くない」！「良いことをしているのよ」！<br />
　彼女がそう叫んだ瞬間、B国の「多くの人が喜ぶ行為」を「悪いこと」と定義付けてしまったのだ。<br />
　B国でも彼女と同じ、真面目な人が「多くの人が喜ぶ行為」を一生懸命皆のために行っているかもしれないのに。<br />
　自分のしている行為が、皆も喜ぶと信じたいがために。<br />
　自分の生き方が誰かを傷つけていることから目を反らすために。<br />
　自分を正当化するために。<br />
善と悪が生まれた。<br />
　結局、A国は、B国を滅ぼした。「悪いことを行う国」だからだ。<br />
　B国で、皆を喜ばせるために真面目に働いていた娘がいたが、娘は「悪いこと」をしているという理由で殺された。<br />
　A国の娘が、「私の家族や友人は喜ぶけど、あなたの国では嫌がられるのね」という風に納得していれば、B国の娘は殺されずに、幸せに暮らしていたかもしれない。<br />
　本当に、B国が滅ぶ必要はあったのか？<br />
　A国の人々はこう答えた。「B国は悪い国だったから良かったんだ」と。<br />
　B国の娘の死体から流れた涙は、全て砂に吸い込まれてしまった。<br />
愚話？残念。<br />
現代の話である。<br />
　そして今この瞬間さえも、地球で一番大きな国の兵士が、「悪」という自分を正当化するために生まれた言葉に判断をまかせて、B国の娘を殺している。<br />
　誤爆で吹き飛んだ家でバラバラになった子供の死体を見ても、自分ですべきことを自分で判断せず「悪」という言葉に判断を任すのである。<br />
　だから「悪を滅ぼすため」と言われればいくらでも殺せるのである。<br />
　また、善悪の考え方には、宗教が強く汲みしている。<br />
何万年も前の太古の昔から宗教があるが、善悪の概念を生み出した宗教は少なくないだろう。<br />
　昔も今も、人は混沌とした闇に脅える。<br />
　その恐怖から逃れるために、善悪の概念は大いに役に立つ。<br />
　闇の中で震えながら、人はイメージする。<br />
　世界が善と悪の二つに分かれている。<br />
　自分は、分かれた世界の善の側にいる。自分は善に守られ、自分の恐れる悪はこちらに入って来れない。<br />
　なぜなら自分は善を信じ、日々善を行っているからだ。<br />
　そう考えることで、心の恐怖のもとであった悪が遠ざかり、安心して眠ることができる。<br />
これも現代の話だ。<br />
　地下鉄に毒を撒き散らしても、彼らにとっては「善いこと」なのだ。彼らには彼らの善と悪を判断する独裁者が居るからだ。<br />
　だから、もうやめよう。<br />
悪い＝私は嫌い。<br />
良い＝私は好き。<br />
それだけ。<br />
　それでも怖いか。 自分の「好き」自分の「嫌い」で生きるのが怖いか。誰かに定義して欲しいか。それなら独裁者の国へ行け。独裁者の宗教に縋れ。<br />
　お前は「悪く」などない。父性を他者に求める心もあるだろう。<br />
　ただ、自分で考えずに人を傷つけるな。<br />
　私は自分で考えない奴、自分で感じない奴が「大嫌い」だ。<br />
　それだけ。<br />
　私の世界には既に、善も悪も無い。<br />
　「好き」「嫌い」で生きる私が怖いか？<br />
　安心していいと思う。<br />
　私は自由が「大好き」だから、法律に反することはあまりしないだろう。<br />
　さようなら、20世紀。さようなら。<br />
</p>
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