宋 文洲の記事は初めて知ったが、こんな記事があった。

 些細なことで自殺する今日の日本には、十分に幸せなはずなのに幸せになれない人々が、大勢います。理由は簡単です。失う経験がないからです。得ることは当然であり、足りないことを不幸と考えるのです。その足りないことは、他人との比較によって常に作り出しているのです。だから常に不幸なのです。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20070618/127677/
私がこの考えに至ったのは、17・8才の頃だった。
子供の時分からずっと祖母・母に「お前は幸せだ」と言われ続けて、それで私はなぜ、事実死に対する願望が膨らむのか。
私は考え続けていた。
初めは、「自分が悪いからだ」と思っていた。「幸せな環境なのに、こんなにも苦しいのは、自分自身が悪だから」
そう思っていた頃が、一番重症だった。
恵まれていることと、幸せであることは、違う。
10代後半の私が、「自分で掴み取る幸せ」を少しずつ、少しずつ手にしながら、気付きはじめた。
10代の少年少女の人口、約240万人。
小学生の作成したHPのリンク集を見たことがあるか。
私が10代であったころと比べ物にならないくらいの少年少女が、声に出さずに叫んでいる。
そして、自らの血を少しだけ失いながら、微かな幸せを得、また少しだけ生きる糧とする。
それこそ、「失うことによる幸せの認識」である。
なんと悲しい認識方法だろうか。
太古から、人は生きることとは何か、幸福とはなにか、何を目指すべきかを思い、悩んできた。
その苦しんだ軌跡、共に考え続けること、それが「哲学」である。
「食べること」まずは食べること―「経済」を追ってきた、近代世界の大部分。
食べたら次は、幸せになること、それが目指すべきことで、それこそ祖先の願いである。
食べたら、また食べる、では、病気になり死に至るのを早めてしまう。
プラトンが1400年前に少年たちを集め無形を説いた、アカデメイアが何故今無いのか。
何故、「生きること」「幸せ」を話し合うことが、義務教育でなされないのか。
説く者がいなくても、ただ哲学の歴史について学べばよい。
自分の中に閉ざされた苦しみが、数千年も前から同じように誰かが悩み苦しんでいたことだと判るだけでも心の暗闇に小さくとも光は灯るだろう。
本当になんにも見えない、暗闇を抱えてしまった少年と少女は、目に映った世界も真っ暗闇である。
だから、なんだってできる。どんな凄惨な行為でも・・・心の眼が見えないのなら、できてしまう。
現代の大人は、私も含めて・・・ロウソクに火さえ点けられないのだろうか。
宗教国家であれば、ロウソクに火を点けることは容易いだろうか。
そもそも宗教は、ロウソクに火を点けやすくする燃料のようなものである。
無宗教国日本は、哲学大国にはなれないだろうか?
小さなロウソクの火でも、明りさえ灯れば暗闇は暗闇でなくなるのだから。